「文書」問題から考える社会と教育

最近、世間を賑わせているある「文書」を巡る政治の話題について、私は、人を貶めることに傾倒する野党議員のような生き方を心から軽蔑しています。

その人の生きざまを通して明るい未来が見えるようでなければ、政治家としての素養はありません。

「文書」問題で騒いでいるのが立憲民主党員だから酷いということではありません。

自由民主党だって、権力や私利私欲に溺れている政治家はたくさんいます。

しかしながら、別の立派な国会議員が仰るように、こんな人たちでも選挙で選ばれてその職に就いているという事実があります。

大切なのは、政治の有様が、私たち有権者の状態の鏡になっているということだと思います。

政治家を見て醜いと感じるのは、それはつまり社会の状態が酷いということになります。

社会を、政治を良くしようと思えば、私たち有権者が思考の分断を無くすよう努力し、子供たちに良い教育を施す必要があります。

政治・思想は自由ですので、特に教育は公平・中立であるべきです。

ところが、マスメディアや学校の教職員の思想が偏っているケースがあまりに多く、私の小さな学習塾においても公平・中立に物事を考えられる状態を作ることに苦労しています。

端的に言えば、報道や学校から植えつけられる「分断された思考」を破棄し、様々な角度から事象を捉える能力が身につくように指導を繰り返しています。

欺瞞に満ちた政治やマスメディアに打ち勝ち、子供たちが将来、より良い社会を築いていけるように今日も頑張ります。