授業至上主義について

授業を受けることが学力を上げるための最適の手段か、といえば殆どの場合それは違う。

授業には無駄が多い。
個別指導ですら、学習の主導権を他人に渡している時点で、最大の学習効率は得られない。

効率よく学力を上げるには、まず現状の学力と目標レベルのギャップを認識する必要がある。
そして、手順と方法を決めてから学習する。

手っ取り早く学ぶことの全体像を知ろうとするならば、ネット上にたくさんある優秀な動画を見ればよい。
そして、より深く体系的に理解するには、書籍でもデジタル教材でも自分に合うもので学べばよい。
学ぶ方法の選択しが飛躍的に増え、本当に良い時代になったと思う。

深く体系的に学ぶということにおいては、学ぶ意思が強ければ強いほど、授業という方法は相対的に非効率になる。

したがって、私の塾では高校生には定常的な授業を殆どしない。

だが、高校生以上のコースについての問い合わせで、授業はないのかと聞かれることは、やはりある。
大して意味がないからやりません、と即答したくなるが、そう思われるのも無理はないので、毎回丁寧に説明する。

授業が非効率と言えるようになったのは、インターネットにより情報が得やすくなったことが背景として大きい。
この10年でもインターネット環境は大きく変化したから、それ以前の感覚のままでいる人の方がまだ多いのかもしれない。
それに、誰しも自分の記憶を頼りに教育について指摘しがちなので、保護者の方々が「授業は?」となるのも大いに理解できる。
学校も大手予備校も未だ必要以上に授業をしているのだから、そうなるのも、もはや当然なのかもしれない。

少し話が逸れるが、文科省は教員の業務負荷や教員不足を問題にするなら、学校の授業を有名講師の動画に置き換えればよい。
教師はマネジメントや演習支援に徹すれば良い。
しかし、教職員の存在価値が低下すると恐れてか、それが実現する気配はない。

そんな体質だから、志ある教師は学校から去り、魅力も指導力もない教師が量産される。
ことさら、高校での進路指導や小論文指導についての能力の低さはこのブログでも何度か述べている。
ここでもまた断っておくが、全ての教師がそうだと言っているのではない。
組織の仕組みや体質がそのような不都合を作り出していると申している。

話を本題に戻す。
では、中学生・小学生に対してはどうかというと、ある意味仕方なく授業を行っている。
学ぶ意欲の強い子の割合が高校生に比べて低いためである。
本当は、できることなら学習マネジメント主体の指導がよいと考えている。
だから、中学生・小学生にも授業の中で学習方法や計画の立て方について指導する場を増そうとしている。
未だ道半ばである。

どこまで行くかわからないが、状況を見ながら最適な指導形態を模索していくとに変わりはない。
授業をするならするで、どのようにすれば学ぶ気持ちが高まり学力が伸びるか、それも模索していく。

だが、決して授業至上主義には陥らない。

変わりゆくことが生命の本質だ。
それに対し学校や一部の大手予備校は保身のために授業至上主義を変えようとしない。
そこから生徒たちを救う。
5年半前には存在すらしなかったこの塾が、これからどのように変化していくか。
楽しみというよりも使命感の方が強い。
確かな意志を持って、これからも有機的な探究を続けていく。